走死走愛死天流

白くても、黒くても、わたしはわたし。

少女

少女から女へと変わるのはどのタイミングなのだろう。

だれかに恋をして嫉妬の感情を知ったとき?

子宮から血が流れ出たとき?

性を利用したとき?

初めてセックスをしたとき?

だれかから身を焦がすほど自分を求められたいと思ったとき?

わたしはいつの間にか少女を脱ぎ捨て、女になっていた。

嘘みたいに大きく鋭利な棘のある茨が心臓をきつく締め上げているかのような痛みを知ってしまったからだろうか。

恋とは、お砂糖よりも、チョコレートよりも、生クリームをたくさん絞ったケーキよりも、ずっとずっと甘いものであると思っていた。

ある日、ふと "まだ夢を見ているだけの少女だった頃のあたしは" という歌詞を書いた。

それと同時に、もう少女ではいられなくなったのだと悟った。

しかし、何度傷つき、涙を流しても、心のどこかに少女を飼っているような気がしてならない。

女という生き物に羽化したはずのわたしは、未だ飼い慣らせない少女を手放すことができない。

いつまでも鳥肌が立つほどに甘ったるい夢を見ていたい。

甘やかされ、守られ、赦され、かわいいかわいいと頭を撫でられていたい。

そんな少女のわたしを、冷めた目で俯瞰して見ている女のわたしも、いる。

わたしはわたしを看過できない。

いつまでジレンマを抱えながら生きていくのだろう。

殻の中身は

今夜はポーチドエッグを作ろう。

沸騰した湯に、酢と塩を入れ、箸でぐるぐる混ぜて渦を発生させたところに、生卵を落とす。

殻の中身は柔いから、崩れないように、慎重に、丁寧に。

武装という名の化粧をして着飾ったわたしと、まっさらな素のわたし。

どちらも愛してほしい。

でも、きっと魂まで曝け出すことはできないのだろう。

これから先もずっと。

どす黒いもの

わたしのなかのどす黒いもの。

胸に渦巻くどす黒いもの。

息が上手にできないから、魚になった。

魚のわたしの鱗はどす黒い。

醜い鱗を剥がしても、流れるのはどす黒い血。

最初はそうじゃなかったの。

そうじゃなかったのよ。

きれいな、きれいな、色をしていたの。

限りなく透明に近い、ブルーの鱗。

太陽の祝福を受けて、きらきら、きらきら、光っていた。

どんどん黒く染まって、なにもかも、吸収してしまう。

黒く塗り潰されて、見えないの。

 

水中にいると、母の胎内を思い出す。

ときどき、湯船に張ったぬるま湯のなかで、わたしは目を瞑る。

そうすると、わたしの世界には安寧が訪れる。

赤ん坊はどうして産声をあげるのだろう。

ずっと、やさしいゆりかごのなかにいたかったから?

世の中の厳しさや理不尽を知っているから?

何故なのだろう。

わからないけれど、わたしは思う。

赤ん坊は子宮にいる頃、自我を持っていて、産道を進むにつれ、記憶を失っていき、外界に出るとすっかり忘れ去ってしまうのではないかと。

自分が何者なのか、わからない恐怖で泣くのではないかと。

わたしもわたしがわからない。

ただ、あるのはどす黒い感情だけ。

蛾の味

わたしは毎日いくつもの夢を見る。

夢の内容はだいたい覚えているが、なかには思い出せないものもあり、それがどんなものであったのか非常に興味をそそられる。

人間が覚えている夢と忘れてしまう夢にはなにか傾向があるのだろうか。

わたしは中学生の頃、夢日記をつけていたことがある。

明晰夢を見られるようになりたいといういかにもな理由から始めたものだったが、毎日時間をかけて夢の内容(五感の有無まで)を細かくノートに綴ることを、半ば趣味のように楽しんでいたように思う。

右手に鉛筆を持ち、夢の細部を思い出していくと、ぼやぁっとした曖昧な模様が、次第に鮮明な形になっていくような、そんな快感があった。

結局、一度だけ明晰夢を見ることができた。

なんだか怖くなり、やめてしまったが。

昨日、夢のなかで蛾を食べた。

詳しくは思い出せないが、場所は実家で、なにかの拍子に口内に異物が入り、押し寄せる不快感に目がぐるぐると回った。

潰してはいけない気がして、わたしは目に涙をためながら、きちんと口内に空気を保っていた。

異物の正体を確かめるため、一階のトイレ前の鏡に向かうと、嘔吐するように舌を出した。

そこには、数匹の白い蛾が羽をたたんだ状態でとまっていた。

必死に吐き出そうとするも、生きているのか死んでいるのかもわからないその蛾たちは舌にまとわりついたまま。

その先は思い出せない。

少し場面が変わり、今度は紙箱のなかに大きな白い蛾がしまわれていた。

とても美しい、立派な蛾だった。

わたしはそれを何故か食べてしまった。

味はわからないが、言葉に表せないあの食感だけは覚えている。

さて、夢日記を書いていたことがあると前述したが、これには夢をよりリアルにするという効果があった。

毎朝目が覚めると、そもそもの五感の有無やどれくらい強く感じられたか、それはどんなだったかなどをとにかく細かく記録していくのだが、始めたての頃の夢では、嗅覚・味覚・触覚はほぼ感じることができない。

しかし、夢日記を続けていると徐々に感じられるようになっていく。

もう一度言う。

わたしは怖くなってやめてしまった。

あのとき、やめてよかったと心から思う。

もし続けていたら、昨日の蛾に味も感じていたかもしれない。

この世の中には、知らなくていいこともあるのだ。

平静と高熱のあいだ

風邪をひいたあたしに

「喉は痛くないの?」とママ

「ええ」

でも、胸は痛いわ。

 

熱のせいか、咳のせいか、酷く痛むからだを起こして本を読んだ。

一冊を読み終えるのに、昔の倍くらいの時間をかけて。

わたしは賭けていたのかもしれない。

なにかを祈るように、そっと。

怖かった。

いつの間にか、主人公にだれかを重ね、その恋人には自分を重ねて、多く感情を揺さぶられながら読んでいたように思う。

最近、自分が薄氷の上に立っているように感じることがあった。

美しい氷の大地を歩いたり、走ったり、はたまた滑ったりして夢中になっているうちに後戻りのできない薄氷まで来てしまったのか。

それとも、足元が薄氷であることなど端から承知の上であったのか。

どちらにせよ、それでも歩みを止められないわたしは愚かだろうか。

いくら平静を装っているつもりでも、高熱があるときのような夢を見てはいやな汗をかいて目を覚ます。

結局、本当に熱を出してしまったのだが。

熱があるとよく眠る。

途中何度も目を覚ますが、それこそ泥のように眠る。

いやな夢を見るのは怖いが、あくまで夢なので、いまのわたしには好都合なのかもしれない。

ひとりになると不安で泣き出しそうになるから。

平静と高熱のあいだで、今日はどんな夢を見るだろう。

現実になってほしい夢も、そうでない夢も、見たくない。

どちらにしたって、目が覚めたときに悲しい気持ちになるのは明白だから。

なんだか無性にコーヒーが飲みたい。

永遠

学生時代を思い出していた。

毎日のように映画をいくつも観て、様々な感情を抱いていたあの頃。

いまよりもずっと思考がぐちゃぐちゃで、けれども、買ったばかりの果物のように新鮮で豊かな香りをもっていたように思う。

なにも考えないという状態を知らず、頭のなかにはいつも洪水のように言葉や感情で埋め尽くされていた。

激しい感情にときに振り回されながらも、映画を観て、本を読んで、音楽を聴き、おいしいごはんを食べる。

泣いて、笑って、また泣いて。

そういう風な生活が、命尽きるまでは永遠に続くような気がしていた。

近頃、もとい夏の終わり頃からだったろうか。

わたしは、ついに白紙を手に入れた。

これは喜ばしいことではなかった。

あんなにも溢れていた言葉や感情は、どこに消えてしまったのだろう。

空っぽになってしまったようで怖かったけれど、白紙の状態のわたしはその恐怖さえ感じなかった。

ときどき、なにかの拍子にまっさらのわたしになっては、ふと我にかえり戸惑った。

幼稚園の頃、担任の先生が「感受性の強すぎる子なので気をつけてあげてください」と母に言ったらしい。

その感受性に苦しめられてきたのも確かであるが、救われてきたのもまた間違いではなかった。

なにが原因か、どうも "わたし" という存在がよくわからなくなってしまった。

わたしはどうしたいのか、なにを考えているのか、感じているのか、わからない。

進路を決めなくてはならない高校生のような "自分がどうしたいのかわからない" のではなく、視界に靄がかかっているようでもなく、冬の朝の澄んだ空気のような、そんな感じなのである。

永遠だと信じていた愛にすら、問を投げかけてしまう。

でも、きっと、愛は一生消えない。

増えたり減ったりしながら形を変えていくのだろう。

今日、久しぶりに二本も映画を観た。

やはり、受け取ることのできたものが以前より少ないように思うけれど、楽しむことができた。

いまこれを書いているわたしも白に近づいてきているようで、上手く頭が働かない。

これから、わたしはどうなっていくのだろう。

とにかく、ひとつだけわかったことは、どうやら永遠はあるらしいということだ。

 

大人になる

大人になる、とはどういうことだろう。

諦めることなのだろうか。

我慢することなのだろうか。

もし、そうなのだとしたら、とても悲しいことだと思う。

大人になるとは、大人にならざるを得なかった場面でなるべく綺麗に強がり続けた結果なのかもしれない。

聞いたら、生きているのが苦しくなるような言葉、顔やからだにメスを入れたくなるような言葉、眠れずに朝を迎えるような言葉、そんな猛毒のような言葉はたくさんある。

それらをその場だけ笑ってやり過ごすことは得意だ。

ひとりになってから散々泣くことになっても、人前ではいつもただヘラヘラしていた。

わたしが傷ついていないフリをすれば、空気を腐らせずに済むことなど想像に容易いから。

毒は徐々に心を蝕んでいく。

己も気づかぬうちに、深いところまで根を張っていく。

浸食されたわたしはよりいっそう弱くなる。

その弱さが降りしきる雪のように積もっていき、ほんのひと握りで強い弱さになる。

いままで平気だった言葉にも敏感になり、ふとした拍子にどろどろの血反吐を吐く。

ばかみたいだ。

自分の発した嫌な言葉に呆れ、わかるはずのない相手の気持ちを憶測で判断し、泣き出したくなるほど後悔するのだから。

耐え続ければ、自分のなりたくない自分になってしまうけれど、毎回感じたことを素直に表せばいいわけではない。

女のくせにだとか、生意気だとか、小娘が調子に乗るなだとか、わたしはそんな風に怒鳴られたら息ができなくなるし、涙を止めることすらできなくなってしまう。

そんな片手で捻り潰せそうな可哀想なわたしは、我慢して笑って流していれば大人だねと褒めてもらえることも、ばかな女の子を演じていれば可愛がってもらえることも知っている。

結局、わたしが我慢することがいちばん楽で、マシなのだ。

しかし、そうしていると、ときどき本当にひとりぼっちになりたくなる。

いっそ死んでしまいたいような、だれもいないどこかへ行きたいような。

ざらざらとしたものを抱えて、大人になったり、なれなかったりしながらなんだかんだ生きていくのだろう。

大人になる、とはどういうことなのだろう。

今夜はきっと、樹海のような夢を見る。